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COLUMN

VOL.1 THE BEGINNING OF GLOBAL WORK

「礎をつくった2人が語る
グローバルワークの黎明期。前編」

茂木 孝仁 (株式会社ギミック 代表)
櫻井 健一 (株式会社アダストリア 顧問)

2020.4.17 UP

この春、設立25周年を迎えたグローバルワーク。今日までの長い歴史の道程には、現在、そして未来へと語り継ぎたい数々のドラマがありました。創設の中心メンバーであり、ブランドの礎を築いた当時のチーフマネージャー&バイヤーとともに、立ち上げまでのストーリー、黎明期のエピソード、今だから明かせる知られざる秘話などを2回に分けて振り返ります。今回はグローバルワーク の前身となるセレクトショップが誕生するまでをお届け。

写真・玉村敬太
文・いくら直幸

株式会社アダストリア 顧問
櫻井 健一

1960年、茨城県生まれ。グローバルワークを展開する(株)アダストリアの前身会社が運営した、地元・水戸のカジュアルショップにて’78年にアルバイトを開始。その後、正社員となり、店長やバイヤー、チーフマネージャー、営業統括兼取締役、海外事業を行うグループ企業の副社長など要職を歴任し、2014年より現職。

スタート当初はセレクトショップ
店名もグローバルワークではなかった。

—まずは、それぞれの経歴、グローバルワーク誕生までの経緯をお聞かせください。

櫻井:話は高校3年生の頃まで遡ります。青春時代、僕の夢はプロのミュージシャンになることでした。とはいえ、すぐに音楽で生計を立てられる見込みもなく、地元の水戸の商店街で販売員のアルバイトを始めたんです。そこが現在、グローバルワークを展開するアダストリアの原点であり、紳士服を販売していた福田屋洋服店が手掛ける「カジュアル・ポイント・フクダ」というショップ。ジーンズやアイビーファッションを中心に取り扱っていました。

小遣い稼ぎの腰掛けのつもりが、卒業後そのまま正社員になり、気付けば40年以上も居座っています(笑)。履歴書の提出や面接、試験もなかったのですが、オーナーからは “ 新卒採用・第1号 ” だと。その後、店名を「ポイント」と改称し、1982年に茨城県外への出店に伴って、店長として群馬の前橋に赴任しました。そこに通うお客様が、当時まだ高校生だった茂木さんでした。

茂木:そうですね。僕は高校球児で、将来はプロを目指していました。しかし途中で夢破れ、ファッションに関心を抱くようになった頃、ちょうどオープンした「ポイント前橋店」に出入りするようなったんです。そして19歳のとき福田屋洋服店に中途入社しました。

櫻井:そうして徐々に支店が増えていったのですが、当時は現代のように情報が画一的ではなく、ファッションにも地域差があり、都市によって売れる洋服が違いました。ならば今度は、地域性を大切にしながらも、品揃えで差別化を図ることに。他店では買えないアイテムを置こうと、アメリカに渡って目新しいブランドや珍しいモノを見つけて来るなど、直接バイイングのインポートにも力を注ぎました。

それと並行して、自分たちでも商品を作ろうと。かといって、小売店であった我々にはアパレルを企画・生産するノウハウがない。そこでメーカーの既成服をベースに、生地違いをお願いしたり、ボタンの色を変えたり、衿型をアレンジするなど、ウチだけのために多少の仕様変更をリクエストしました。今で言う別注みたいなことです。

茂木:こうしたビジネスモデルで「ポイント」は少しずつ成長を続け、日本全国に30店舗前後まで拡大しました。その頃、櫻井さんはチーフマネージャー、僕はバイヤーでした。

株式会社ギミック 代表取締役
茂木孝仁

1964年、群馬県生まれ。’83年、グローバルワークを展開する(株)アダストリアの前身会社に入社し、系列店など複数のショップで販売員を務める。エリアマネージャーやチーフバイヤー、チーフマネージャーなどを経て2004年に独立。現在は在籍時に培ったノウハウを活かしながら、アパレルの企画&製造会社を経営。

櫻井:それまでは東京をはじめ、主要都市を中心に店舗を構えていました。ただ、都市部で利用されていた学生をはじめとする若いお客様がUターン就職などで地元に戻ると、受け入れ皿となるショップがなかった。

茂木:加えて、当時はファッションビルへの出店がメイン。20坪ほどの限られたスペースで、ほかのテナントとシノギを削り合っていました。しかし、もっと会社が成長するためには、他と同じような場所で似たようなものを売る、というビジネスに限界を感じ始めていたんです。

櫻井:今でもよく覚えていますが、’92年頃からロードサイドブームが起こり、世間の商業エリアが変わりつつあった。ある日、福田会長の運転で郊外まで連れ出され、ファミレスや紳士服量販店といった大手チェーン店が立ち並ぶ国道を走りながら、こういう場所にウチのショップがあったらどう思う?と尋ねられた。僕は難しいと思います、と答えました。結果、ロードサイドに出店することはありませんでしたが、そのとき会長は時代の変化を読み解きながら、「ポイント」も変革の時期だと考えていたんだと思います。

茂木:そうして数年後、福田会長が導き出した活路がショッピングモールでした。アメリカを視察して、近い将来にモールの時代が来る! これからは日本各地に次々とできるから、この波に乗らないと生き残れない、と。

櫻井:その頃、僕個人も結婚をして子供が生まれ、今までのように人混みの街に出て、気ままに買い物を楽しめる生活スタイルではなくなっていました。けれど郊外のショッピングモールであれば駐車場が十分に用意されているのでマイカーで出掛けられ、店内も広いからベビーカーを押しても邪魔者扱いされる心配もなく、ファミリーでゆっくり満喫できる。

茂木:そこでショッピングモールに初めて本格出店したのが、日本における先駆けであり、当時は国内最大だった千葉の「ららぽーと船橋ショッピングセンター(現ららぽーとTOKYO-BAY)」でした。

櫻井:ただし先のとおり、今までの我々の店舗は20坪程度が中心だったのに対し、ららぽーとで用意されていたのは150坪! 一気に7倍以上です。自分たちには異常な広さに感じましたね。

茂木:ですから、それだけの店内を埋める商品を揃えるだけでも大変でした。「ポイント」の主軸であったワークとミリタリー、加えてアウトドア、トラッド、モード、さらにレディースといった6カテゴリーに分類し、それぞれに大体30坪ずつ割り当てて150坪を構成しました。そして遂にオープンしたのが、’94年9月です。

—そのショップがグローバルワークの第1号店ですか?

茂木:いえ、当初は「ポイント船橋店」でした。しかし店を開けて数ヶ月が経ち、冷静になってショップを見ると、規模もラインナップも既存の「ポイント」の枠組みには収まらない、もはや別物だった。ならばと、自立させて新しい店名を付けることになったんです。

櫻井:それが「ザ・ワークス」です。由来は “ 選ばれし作品集 ” という意味をもつ、ジャズミュージックの有名なベスト盤シリーズ『ワークス』から。6カテゴリーの優れた作品ばかりを選りすぐった、ベストセレクションなショップというコンセプトで命名しました。

茂木:そうなんですか? 初めて知りました(笑)。

櫻井:何を今さら……(笑)。こうしてオープンから半年後の’95年2月に名を改めました。そして、ここがグローバルワークの出発点だと考えています。

茂木:とはいえ、まだ現在のようなオリジナルブランドはなく、いわゆるアメカジのセレクトショップでした。メンズが中心で、女性に向けて系列のレディースブランドである〈ローリーズファーム〉のコーナーを設けました。

櫻井:で、今日の服装もそうですが、茂木さんが好きな黒のモードっぽいアイテムも少し置いている感じ。あとは小物とか雑貨。

茂木:あの頃、チーフマネージャーだった櫻井さんも、バイヤーだった僕も、週末には店頭に立って接客もしていましたね。

櫻井:滑り出しから非常に順調でした。今だから明かせますが、実は当時、会社の業績がふるわず、ららぽーへの出店は賭けでした。コケたら危うい状態だったので、船橋が起死回生となって持ちこたえることができたんです。

後半ではグローバルワークの名前に込められた
想いや創設メンバーが今思うことをご紹介!

後半ではグローバルワークの
名前に込められた想いや
創設メンバーが今思うことをご紹介!